詩吟は日本独自の伝統的な文化の一つです。日本人は奈良・平安時代の昔から漢詩を学び、自ら漢文で詩を作って来ました。 Chanting of a Chinese poetry or Japan-made Chinese poetry is one of the traditional culture unique to Japan. Japanese people learned Chinese poetry from the ancient times of the Nara-Heian period, and have made Japan-made poetry of Chinese letter by themselves. 


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過去の吟題のリンク集

2018年06月23日

H30-07『平泉懐古』大槻磐渓

平泉(ひらいずみ)懐古(かいこ) 大槻(おおつき)磐渓(ばんけい)

 

三世(さんぜ)豪華(ごうか)帝京(ていきょう)(ぎ)

朱楼(しゅろう)碧殿(へきでん)(くも)(せっ)して(なが)

(ただ)(いま)(ただ)東山(とうざん)(つき)のみ(あ)って

(きた)(てら)当年(とうねん)金色堂(こんじきどう)


三世豪華擬帝京

朱樓碧殿接雲長

只今唯有東山月

來照當年金色堂


*以下は、財団法人日本吟剣詩舞振興会編『吟剣詩舞道漢詩集』より引用させて頂いております。

【作者】大槻磐渓(18011878) 幕末明治の儒者。名は清崇(きよたか)、字は士広、通称は平次、仙台藩士。藩の侍医の次男。江戸木挽町に生まれた。幼時から家学を受け、初め昌平黌に学んだが、のち、東海・機内・長崎に遊学し、蘭学を志した。ペルリ来航の際、建議して開港を主張し、意見書を林大学頭に提出し、土佐の漂流人・万次郎を通訳として採用せしめ、ロシアのことについても阿部正弘や勘定奉行川路聖謨(としあき)に上書するなど、たえず外交についても意を用いた。著書に『孟子約解』などがある。明治11613日病没。享年78歳。

【解説】藤原三代の豪奢も一場の夢となり、当年の唯一の遺物金色堂を月が照らすのみという感慨を述べたもの。

【語釈】*平泉・・・岩手県西磐井郡平泉町。源義経最期の地といわれる高館の跡などがある。清衡・基衡・秀衡の藤原三世がこの地に居館を築き、約100年間にわたり、奥羽の地を領して豪華をきわめた。  *金色堂・・・平泉の駅の西方2キロにある中尊寺の仏閣。国宝に指定されている。芭蕉の句に「五月雨の降り残してや光堂」とある。

【通釈】藤原氏三代の繁栄は豪華をきわめた。当時、平泉を天皇の都京都になぞらえ、雲にとどくばかりの朱塗りの楼台、碧色(あおいろ)の殿堂が長ながと建ち並んでいたものであったが、今はただ、そうした豪奢も空しい夢となり、昔と変わらぬものは東山に出る月だけで、毎夜来って当時からの唯一の遺物たる金色堂を照らしているのである。


*補遺 (有田信風)

奥州は出羽国(現在の山形県・秋田県(北東部を除))と陸奥国(現在の福島県・宮城県・岩手県・青森県・秋田県北東部)から成ります。

奥州藤原氏の祖とされる藤原経清の父・頼遠は下総の住人であったとき何かの罪を得て陸奥国に留住させられていれたようです。

その頼遠の嫡子・経清は京都で軍事貴族であったようです。経清は陸奥守(陸奥国司)に随行して陸奥に来て土着したようです。その後奥州藤原氏は摂関家から藤原氏族の係累とされていて、後に奥州における摂関家の荘園の管理も委ねられています。奥州藤原氏自身も藤原北家秀郷流であると称していたようです。

経清は陸奥国の有力な豪族・安倍氏の一翼を担うようになり、安倍氏の娘を妻(名前は有加一乃末陪(ありかいちのまえ)とされている)とし、子・清衡を設けていました。

朝廷は奥州の争乱の平定を意図して源頼義を国司として陸奥に赴任させました。やがて陸奥の有力な豪族である安倍氏と源頼義との間の争いが起こりました。源頼義は出羽国の有力な豪族・清原氏の加勢を得て安倍氏を滅亡させました。このとき経清は源頼義によって、錆びた刀で苦痛を与える方法で斬首されました。これが「前九年の役」と言われるものです。

有加一乃末陪(ありかいちのまえ)は、戦勝者・清原氏の長男・武貞に再嫁しました。これにより彼女の子供・清衡は清原氏の嫡男・武貞の養子となりした。

その清原氏の一族に内紛が発生し、武貞の養父側が勝利しました。これが「後三年の役」といわれるものです。最終的には養子である清衡が奥州の覇者となり、出自の藤原を名乗り、奥州藤原氏の祖となりました。

奥州藤原氏は初代・清衡、第二代・基衡、第三代・秀衡と約100年間にわたり続き、四代目の泰衡のとき源頼朝に攻められて滅亡しました。結局、奥州の地には当初から源氏が関わり、源氏によって滅ぼされたということです。義経は第三代・秀衡を頼り奥州に落ち延びたのですが、その秀衡も源頼朝(義経の兄)の力に屈し、義経は結局自害に追い込まれ、その地で果てました。

なお、安倍氏についてはその出自を神武天皇東征時倒された機内の王の子孫であると言う説・孝元天皇(第八代天皇(欠史八代の一)の後裔であるという説・朝廷に従った土着の民の支配者であるという説などがあります。

「欠史八代」とは第二代から第九代までの天皇について『古事記』・『日本書紀』には系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞)が記されていないとして、歴史学者・津田左右吉(1873〜1961)が提唱した説です。この説に対して、この八代の天皇は実在していなかったとする説・実在していたとする説あり、それぞれ学者たちが根拠を示して主張しています。

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2018年05月25日

H30-06『芳野』河野鉄兜

お知らせ)
スマートフォンでは広告が出ていて迷惑しています。広告は私(有田信風)と全く無関係です。自分で立ち上げたホームページではなく無料のブログを利用していますので、この種の広告が出るのは止むを得ないのかな、と以前から思っておりますが・・。

芳野(よしの) 河野(こうの)(てつとう) 

山禽(さんきん)叫断 (きょうだん) (よる)寥寥(りょうりょう)

(かぎ)(な)きの春風 (しゅんぷう)(うら)(いま)(しょう)せず

露臥(ろが)延元(えんげん)陵下(りょうか)(つき)

満身(まんしん)花影(かえい)南朝(なんちょう)(ゆめ)


  芳野 河野鉄

山禽叫断夜寥寥

無限春風恨未銷

露臥延元陵下月

滿身花影夢南朝


下記の文は、財団法人日本吟剣詩舞振興会編『吟剣詩舞道漢詩集「絶句編」』から引用させて頂きました。

【作者】河野鉄兜(1825〜1867) 幕末の漢詩人。名は羆(ひぐま)、字は夢吉、通称は絢夫(あやお)、鉄兜または秀野と称した。播州(兵庫県)網干(あばし)村余古浜(よこはま)に、文政8年12月に医家河野通仁の第三子として生まれた。幼時から神童と称され、初め讃岐の吉田鶴仙の門に学び、のち梁川星厳を師とし、よく詩学に通じた。24歳の時江戸に遊んで諸名家を訪れ頭角をあらわした。(中略)のちに日光山に入って学に勤め、再び江戸に上がって播州林田藩に招かれ、到道館教授となった。安政元年から二年の間、讃岐・大阪・山陽・九州に遊んで木下韓(い)村・草場佩(はい)川・広瀬淡窓らを歴訪して帰藩、林田に家塾を開いて生徒に教授した。医家としてよりも詩人として名が高く、名士にしてその地を過ぎる者は皆足を留めたという。文久3年病にかかり、以後病床にあること5年、慶應3年に没した。享年43歳。

【解説】芳野に遊び、南朝をしのんだ作で、春夜ものさびしい御陵おあたりを低徊して去りがたく、野宿して南朝を夢みたという詩である。

【語釈】*山禽・・・山の小鳥。  *叫断・・・叫んで。「断」は絶える意味ではなく、強めの意の助詞。  *寥寥・・・寂しいさまにも夜の更けたさまにもいう。  *露臥・・・野宿する。  *延元陵・・・後醍醐天皇の御陵で、いわゆる塔尾陵。

【通釈】かん高く山中の鳥の叫びがひびきわたり、しんしんと夜は更けてゆく。吹きやまぬ春風も未だに晴れ難い後醍醐天皇のご無念がこもっているようで凄まじく感ぜられる。せめて今宵はみ霊をばお慰め申そうと陵(みささぎ)のほとりで月光の下に野宿をすれば、白々と咲く桜の花かげを身にいっぱい映しながら、いつしかまどろんでしまい、南朝のことを夢みていたのである、


=== 南北朝について ===  以下渡部昇一著『日本史』を参考に記述します。(有田信風)

鎌倉時代中期、後嵯峨天皇(西暦1242年即位)の御世、皇室で相続問題の争いが起きました。後嵯峨天皇には久仁親王と恒仁親王の二人の皇子がいました。皇位は長男である久仁親王に譲位され、西暦1246年に久仁親王は後深草天皇として即位されました。
 しか後嵯峨天皇は二男の恒仁親王愛され、皇室の所領の多くを恒仁親王に相続させようとしました。

 後嵯峨天皇は皇位を長男の久仁親王に譲って上皇となり、久仁親王を皇位につけて後深草天皇としました。しかし後深草天皇にまだ子供が出来ないうちに二男の恒仁親王を皇太弟としました。そして後深草天皇が病気になると退位させて後深草天皇を上皇とし、皇太弟にしていた二男の恒仁親王を亀山天皇として即位させました。このとき亀山天皇は僅か11歳でした。一方、退位して上皇となった後深草天皇は17歳でした。

 父の後嵯峨上皇は文永9年(1272年)に遺言状を残して崩御されました。その遺言状には財産分与については明記されていましたが、誰が天皇になるかについて幕府に任せるとしか書かれていませんでした。

 当時元の来襲に備えて全力を傾注していた鎌倉幕府執権北条時宗は後嵯峨天皇の皇后であった大宮院・西園寺姞子(さいおんじきっこ)に後嵯峨上皇の本心が何処にあるか問い合わせました。すると大宮院は「後嵯峨上皇は亀山天皇の親政を望まれていた」と答えました。

 その結果、幕府は嫡流の後深草上皇の系統でなく、その弟の亀山天皇の親政を決め、亀山天皇の皇子である世仁親王を皇太子に立てました、

 本流であった兄の後深草上皇は悩んだ末出家を考えました。そのことを伝え聞いた時宗は同情し、後深草上皇の皇子である煕仁(ひろひと)親王を後深草上皇の弟である亀山天皇の猶子(ゆうし)(子とみなすこと)とし、将来煕仁親王が即位したときには後深草上皇の院政にすることにして一応の決着を見ました。

 弟である亀山天皇の皇太子が即位し後宇多天皇になり自らは亀山上皇となったとき、兄の後深草上皇の血を引く煕仁親王が皇太子となり、煕仁親王が即位して伏見天皇となりました。その後深草上皇の系統を持明院統(後の北朝)、亀山上皇の系統を大覚寺統(後の南朝)となり、その両統は大体交互に皇位を譲り合っていましたが、次第に対立うるようになりました。

 仲裁役の鎌倉幕府は両統の交代期間を10年と定め、しばらくはその方式が機能していました。しかし鎌倉幕府は元寇の後始末で弱体化して行きました。その結果皇位継承は南北朝の争いに発展して行きました。

 西暦1318年に31歳で即位した大覚寺統の後醍醐天皇は学んだ朱子学(宋学)の教えである大義名分を大事にされ、「日本の正統たる天皇の地位が幕府の意向で決まり、皇位継承に幕府が干渉するのは許すことのできない不遜な行為である」と考えました。

 後醍醐天皇は討幕行動に出ました。このとき後醍醐天皇を助けて兵を挙げたのが楠木正成です。楠木正成は河内の赤坂城に立てこもり幕府軍と戦い始めました。

一方後醍醐天皇軍は笠置山で幕府軍と戦いましたが敗れ、楠木正成の赤坂城へ向かいました。その途中で幕府につかまり、元弘2年(1332年)に謀反人として隠岐に流されてしまいました。

 幕府軍は赤坂城を攻めこれを落としますが、その前に正成軍は一計を案じ正成が其処で焼死したように見せかけて脱出し、勢力を拡大して金剛山に築いた千早城に立てこもり幕府軍と戦いました。その間に隠岐島から抜け出した後醍醐天皇は兵を挙げました。可笑しいのは後醍醐天皇討伐のため鎌倉幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が幕府に対して寝返り、関東では新田義貞が兵を起こして鎌倉に攻め入り、鎌倉幕府は滅びました。

 後醍醐天皇は京都に戻り政治を執ることになりました。源頼朝が鎌倉に幕府を開いてから140年ぶりに政権は朝廷に戻りました。これが「建武の中興」です。

 しかし後醍醐天皇は足利尊氏が朝廷に対して兵を挙げたとき、ご自分に対して武功第一のはずの楠木正成の軍略を受け容れませんでした。このため楠木正成軍は湊川で玉砕してしまいました。この結果「建武の中興」も消滅してしまいました。

 なお、後醍醐天皇は閨房の方も盛んで、子供を産ませた女性だけでも20人は数えることが出来ました。後醍醐天皇はその皇子だけでも少なくとも16人は数えることが出来ます。免罪で処刑された護良(もりなが)親王は第三皇子でした。護良親王が獄中から免罪を訴えた手紙を出しましたが後醍醐天皇には届きませんでした。後醍醐天皇はご自分の御子を処刑させてしまったのです。


    

   

    

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2018年04月23日

H30-05『題自畫』江馬細香

自画(じが)(だい)江馬(えま)細香(さいこう)

 

孤房(こぼう)(ふで)(ろう)して歳年(さいねん)(うつ)

(ひと)たび生涯(しょうがい)(あや)まる(なん)(お)(べ)けんや

(いささ)(よろ)こぶ清貞(せいてい)(かれ)(に)たるを

幽蘭(ゆうらん)痩竹(そうちく)寒姿(かんし)(うつ)


  題自畫 江馬細香

孤房弄筆歳年移

一誤生涯何可追

聊喜清貞與渠似

幽蘭痩竹寫寒姿


【作者】江馬細香(天明744日(1787520日)〜 文久元年94日(1861107日))。江戸時代の女性漢詩人、画家。

美濃大垣藩の医師江馬蘭斎の長女として生まれる。本名は多保。少女の頃から漢詩・南画に才能を示し、絵を玉潾・浦上春琴に、漢詩を頼山陽に師事する。湘夢・箕山と号すが、字の細香で知られ、同郷の梁川紅蘭と併称された。頼山陽の愛人であったことでも知られる。
(以上、ウイキペディアより引用。)


以下、語釈・大意については、インターネット上で公益社団法人関西吟詩文化協会が投稿している記事を引用させて頂きました。

【語釈】*誤生涯・・・ここではョ山陽との結婚ならざるをいう。  *C貞・・・心清らかに志を守るの意。  *渠・・・ここでは蘭と竹をさす。(因みに下記大意の「欄竹」とは蘭の曲線に竹の直線を配したもので、墨画で多く表現されています。)  *寒姿・・・冷たさを感じさせるまでに純粋な姿。

【大意】孤独な生活の中にあって絵筆を握り幾年かの歳月が過ぎ去ってしまいました。生涯にひと度、普通の婦人とちがう道をえらんでしまったからには、どうして取り返しがつきましょうか。

 私がわずかに喜びとするのは、ひとすじに志を守り通してきたことが、ちょうど蘭竹の清らかさに似ていること。

ですからひっそりした蘭や痩せた竹の冷たいまでに純粋な姿を好んで詩や画に描くのです。


【所感他】有田信風

 江馬細香(本名、江馬多保)の号、箕山は、中国の伝説上の帝である帝堯のとき、許由(きょゆ)と巣父(そうほ)が世俗的な名誉を嫌って箕山(きざん)という山に隠れたという「箕山の節」という言葉に由来しているのだと思います。

  許由・巣父の二人は帝堯の国を護る伝説的な高士で、狩野永徳による墨画「許由巣父図」は国宝に指定されています。

 江馬細香は頼山陽との結婚が父・蘭斎の意向により実りませんでした。頼山陽は最初の妻と離婚して江馬細香に会うため大垣に行ったときは独身でした。山陽は細香の父江馬蘭斎の意向を知り、細香と結婚したいと言う話は切り出さず仕舞いでした。その時山陽は34歳、細香は27歳でした。細香の父蘭斎は長女細香が山陽の弟子になることを許しています。


 山陽は舟で大垣を発ち木曽川を下って桑名に向かいました。その後山陽と細香は、山陽が42歳で没するまで交流を続けています。細香は山陽の訃報を聞いて「私は出来の悪い弟子でしたが、先生は小倉の定家のような大先生でした」という意味の詩を作っています。

 私は、人生にはそれぞれ天によって定められた役目があるのだ、と思っております。過去を振り返れば私も時に心の惑いがあり、過ちも犯し、危険な目に遭ったこともあったのですが、お陰様でこの齢に至るまで、大過なく過ごすことができました。これは、天のよる見えざるお力によるものだ、と自分自身ではそう確かに信じております。私の場合、天は阿弥陀如来であり、仏陀であり、永遠に規範とすべきことが書かれている書物の著者たちであり、私の先祖たちであり、私が9歳のとき他界した生母であり、私の精神を導いてくれているもので私の内なる全てです。

 私は「己を知り、己を正しく保ちつつ天命を全うする」ことが大事だと思います。其処に人生の真の価値と幸せがあるのだ、と確信しております。

 己を正すために良い詩があります。それは江戸初期に活躍し若干満40歳で病死した我が国の「陽明学」の先駆者・中江藤樹の『百忍の詩』です。私が携帯電話とパソコンそれぞれに同じ名前で二つ持っているフェイスブックの私のアカウントの一つに、それを「ノート」にして公開しております。

 私は、幸せは遠きところには在らず、我がすぐ傍に在る、と実感しています。正に宋代の詩人・戴益の作詞『春を探る』のようです。この『春を探る』の吟詠については、財団法人日本吟剣詩舞振興会から出されているCD『平成10年度吟剣詩舞道吟詠集』の中に、橋本龍淙の吟詠が収録されています。私はこの吟詠が大好きで、しばしば聴いて楽しんでおります。

 なお、江馬細香と頼山陽の関係について思わせるような、頼山陽の作詞『舟大垣を発して桑名に赴く』があります。自分で聴いてみて大変稚拙な吟詠ですが、20120622日に7月の吟題としてそれを公開しております。大変下手な吟詠ですが上述『百忍の詩』も先月公開しました。これは女性が一緒に詠えるように男声にとっては高い5本で吟じました。



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2018年03月24日

H30-04『百忍の詩』中江藤樹

5本の吟詠を入れ替えました。(4月2日)

百忍詩

      (5本)

 

 (2本)
(ひと)たび(しの)べば七情(しちじょう)(みな)中和(ちゅうわ)

(ふたた)(しの)べば五福(ごふく)(みな)(なら)(いた)

(しの)んで百忍(ひゃくにん)(いた)れば満腔(まんこう)(はる)

煕々(きき)たる宇宙(うちゅう)(すべ)真境(しんきょう)


百忍詩 

一忍七情皆中和   

再忍五jF竝臻

忍到百忍滿腔春

煕煕宇宙總眞境


以下の文は財団法人日本吟剣詩舞振興会編『吟剣詩舞道漢詩集』から引用させて頂きました。

【作者】中江藤樹(16081648)江戸時代初期の学者。通称は与右衛門、近江国(現在の滋賀県)高島郡小川村出身。藤樹は王陽明の知行合一説に傾倒し、わが国の陽明学の主唱者となった。41歳で病没。

【解説】藤樹自身の、陽明学に基づく人生観を述べたもの。「百忍」こそ藤樹の学問の真髄である。

【語釈】*七情・・・七種の感情。仏教では喜・怒・哀・楽・愛・悪(お)・欲。  *五福・・・人生の五つの幸福、寿命の長いこと・財力の豊かなこと・無病なこと・徳を好むこと・天命をもって終わること。  *満腔・・・いっぱいに満ちていること。  *煕煕・・・広々としいていること。  *真境・・・まことの境地。

【通釈】人間の感情は七種からなっており、この感情が直接表に現れると、思わぬことが起こるものである。まず、一度これを忍べばそれらの感情は一つにかたよらず、穏やかにやわらぐものである。さらに修業を積み、ふたたび忍ぶことが出来るようになると、人生の五つの幸福がすべて自分自身の周囲に集まるようになる。このように修業を積み重ね、百度も忍ぶことができるようになると、心の中はいつも春の暖かさに包まれ、広々とした宇宙で起こるすべての事象を楽しく受け入れることができるものだ。これがまことの境地というものなのだ。

       

<寸評>今、国会では森友学園決裁文書問題で大混乱の状況です。安倍総理はじめ政権側はこの詩文のとおり、「百忍」の心境でしょう。一方、野党・一部のメディは「政権打倒」を掲げ怒り狂っています。彼らは「正しいこと」よりも「分かりやすい」ことに執着していて、国の大事については彼らの念頭にはないように見えます。


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2018年02月24日

H30-03『紅畔独歩花を尋ぬ』杜甫

紅畔(こうはん)独歩(どっぽ)(はな)(たず)  杜(と)(ほ)

男声用2本をコンダクターを弾きながら、女声用に8本の1オクターヴ下をカラオケ伴奏で入れます。

  (2本)

   (8本)

 (6本)

黄四娘(こうしじょう)(いえ)(はな)(けい)(み)

千朶(せんだ)万朶(ばんだ)(えだ)(あっ)して(た)

留連(りゅうれん)せる戯蝶(ぎちょう)時時(じじ)(ま)

自在(じざい)嬌鴬(きょうおう)恰恰(こうこう)として(な)


黄四娘家花滿蹊

千朶万朶壓枝低

留連戯蝶時時舞

自在嬌鶯恰恰啼


作者・解説・語釈・通釈は、財団法人日本吟剣詩舞振興会編より引用させて頂いております。

【作者】杜甫(712770)、盛唐の詩人。李白ともに唐代最高の詩人。李白・高適(こうせき)と交流があった。

【解説】杜甫が成都に住んでいたころ、浣花渓のほとりを一人で歩いていて、花をたずねて作った詩である。七首の連作であるが、この詩はその第六首めである。杜甫が成都に家(いわゆる「浣花草堂」)を建てたのは、杜甫49歳のときであった。これはそれから間もない頃の作品。杜甫の生涯のうちで、最も心の落ち着いていた日々であった。

【語釈】*紅畔・・・浣花渓のほとり。  *黄四娘・・・浣花草堂の近くの村のお婆さんの名前。「娘」は「むすめ」の意味でなく、年配の女性の称呼に用いる。  *蹊・・・こみち。  *朶・・・花のついた小枝。  *留連・・・そこに続けている。  *恰恰・・・鳥の啼き声。

【通釈】黄四娘の家では、花がこみちに咲きみちている。枝が枝を押しつけるように重なってたれている。いつまでも去らずに花に戯れている蝶はときどき舞い上がり、自由自在に啼く愛らしい鴬はコウコウと啼きたてている。 


【補足】有田信風

@ 成都は、中国の四川省の省都です。

A 高適(こうせき)は旧友杜甫が成都に住んでいたころ、杜甫の庇護者でありました。

B 高適の作詞に『除夜の作』と題する詩があります。

     旅館の寒燈 独り眠らず

     客心 何事ぞ 転(うた)た悽然(せいぜん)

     故郷 今夜 千里を思う

     霜鬢(そうびん) 明朝又一年

C 恰・・・ちょうど、あたかも二つの状況がぴったりと一致しているさま。

  恰恰・・・調和がとれているさま。特に音声がうまく調和するさま。

       「恰恰」は、杜甫の上記の作詞がもとで、後世に鳥の鳴き声として誤用されている。(三省堂『漢辞海』より引用)

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