詩吟は日本独自の伝統的な文化の一つです。日本人は奈良・平安時代の昔から漢詩を学び、自ら漢文で詩を作って来ました。 Chanting of a Chinese poetry or Japan-made Chinese poetry is one of the traditional culture unique to Japan. Japanese people learned Chinese poetry from the ancient times of the Nara-Heian period, and have made Japan-made poetry of Chinese letter by themselves. 


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2014年12月20日

H27-01『早(つと)に白帝城(はくていじょう)を発(はっ)す』李白


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(つと)白帝城(はくていじょう)(はっ)李白

(あした)(じ)白帝(はくてい)彩雲(さいうん)(かん)

千里(せんり)江陵(こうりょう)一日いちじつ)にして(かえ)

両岸(りょうがん)猿声(えんせい)(な)いて(や)まざるに

軽舟(けいしゅう)(すで)(す)万重ばんちょう)(やま)


朝辭白帝彩雲間

千里江陵一日還

兩岸猿聲啼不住

輕舟已過萬重山


ここでは記載しませんが、「鷹番詩吟を楽しむ会」ではこの詩を『唐詩の名作30選』(呉川・王保東【著】・中経出版)により中国語で聞いて、従来の吟詠とともに楽しんでいます。


【語釈】(「NHK漢詩をよむ」634月〜9月より引用。)

*早・・朝早く。  

*白帝城・・四川省奉節県の東にある。瞿塘(くとう)峡に臨む絶壁の中腹にあり、これより下流が三峡となる。漢末に公孫述が築いた城。  

*辞・・別れの言葉を述べる。  

*彩雲・・朝やけの雲。  

*江陵・・湖北省江陵県。一名荊州(けいしゅう)。白帝城と江陵との間は約1200里(600キロ)。一日で行ける距離ではない。この句は「朝に白帝城を発し、暮に江陵に宿る」という慣用句によったもの。流れの急なことを形容している。

*猿声・・三峡は野猿の多い所である。漢詩では、非常に悲しいものとしてうたわれる。

  *啼不住・・猿の鳴き声がずっと続いて途切れない。「啼不尽」に作るテキストもある。

【通釈】(「NHK漢詩をよむ」634月〜9月より引用。)

  早朝、朝やけの雲のたなびく白帝城に別れを告げて三峡を下り、

  千里も離れた江陵の地に、たった一日で帰っていく。

  その途中、両岸の猿の鳴き声が絶え間なく聞こえていたが、

  それに耳をかたむけるうち、私の乗った小舟はもう、

  いくえにも重なった山々の間を通り抜けていた。

【解説】上記「NHK漢詩をよむ」によれば、西暦725年、李白25歳のときこの詩を作られています。李白は裕福な商人の家庭に生まれ少年時代は古代中国の蜀という国(四川省がある辺り・省都は成都)で過ごしています。その四川省の南側・山岳辺境地・ベトナムに隣接する地域に雲南省(古称・(てん)が位置しています。

この雲南省は漢民族の手にはなかなか落ちず元の時代になってモンゴル帝国の武力によってようやく中国領になっています。(孔子75代目直系の子孫だという孔 という人が書いた本『中国人と中国系人』参照。)

古代の長江中流域と滇は日本の弥生時代と深いかかわりがあります。日本人の遺伝子の研究や考古学の研究で明らかになってきつつあることによれば、古墳時代以前に北は北海道から南は沖縄諸島まで分布して住んでいた縄文人たちは古代の長江中流域と滇王国から逐次渡来してきた渡来系弥生人たちと混血し、現在の日本人になったと考えられます。

さて李白は五歳の時十干十二支を暗誦し、十歳のころには諸子百家の書を読んでいたと言われます。諸子百家とは中国の春秋戦国時代に表れた学者・学派の総称で、「諸子」とは孔子、老子、荘子、墨子、孟子、荀子などの人物、「百家」とは儒家、道家、墨家、名家、法家などの学派を指しています(Wikipedia)より引用)。

李白は生涯のほとんどを旅で過ごしていますが、長安(今の西安)で時の皇帝・玄宗に詩の才能を認められ、玄宗皇帝に仕えていた時期がありました。その頃、留学生として第9次遣唐使船に乗り込み唐に渡った阿倍仲麻呂(西暦698770年)との間で交流がありました。

阿部仲麻呂は54歳の時、玄宗皇帝の許しを得て日本に帰る遣唐使帰国の船に乗ったのですが乗っていた船(遣唐使帰国の船)が難破し、安南(現在のベトナムの北部から中部の地域で、当時中国唐王朝の支配下の地域)に漂着し、都長安に戻ることができました。その後唐王朝の官吏としてその安南に赴任したりしましたが、結局日本への帰国の夢を果たすことはできず73歳で没しています。

(関連:『無題』阿倍仲麻呂 http://takaban.seesaa.net/archives/201006-1.html )


posted by 信風 at 14:12| 当月の吟題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする