平泉(ひらいずみ)懐古(かいこ) 大槻(おおつき)磐渓(ばんけい)
三世(さんせい)の豪華(ごうか)帝京(ていきょう)に擬(ぎ)す
朱楼(しゅろう)碧殿(へきでん)雲(くも)に接(せっ)して長(なが)し
只(ただ)今(いま)唯(ただ)東山(とうざん)の月(つき)のみ有(あ)って
来(きた)り照(てら)す当年(とうねん)の金色堂(こんじきどう)
三世豪華擬帝京
朱樓碧殿接雲長
只今唯有東山月
來照當年金色堂
*以下は、財団法人日本吟剣詩舞振興会編『吟剣詩舞道漢詩集』より引用させて頂いております。
【作者】大槻磐渓(1801〜1878) 幕末明治の儒者。名は清崇(きよたか)、字は士広、通称は平次、仙台藩士。藩の侍医の次男。江戸木挽町に生まれた。幼時から家学を受け、初め昌平黌に学んだが、のち、東海・畿内・長崎に遊学し、蘭学を志した。ペルリ来航の際、建議して開港を主張し、意見書を林大学頭に提出し、土佐の漂流人・万次郎を通訳として採用せしめ、ロシアのことについても阿部正弘や勘定奉行川路聖謨(としあき)に上書するなど、たえず外交についても意を用いた。著書に『孟子約解』などがある。明治11年6月13日病没。享年78歳。
【解説】藤原三代の豪奢も一場の夢となり、当年の唯一の遺物金色堂を月が照らすのみという感慨を述べたもの。
【語釈】*平泉・・・岩手県西磐井郡平泉町。源義経最期の地といわれる高館の跡などがある。清衡・基衡・秀衡の藤原三世がこの地に居館を築き、約100年間にわたり、奥羽の地を領して豪華をきわめた。 *金色堂・・・平泉の駅の西方2キロにある中尊寺の仏閣。国宝に指定されている。芭蕉の句に「五月雨の降り残してや光堂」とある。
【通釈】藤原氏三代の繁栄は豪華をきわめた。当時、平泉を天皇の都京都になぞらえ、雲にとどくばかりの朱塗りの楼台、碧色(あおいろ)の殿堂が長ながと建ち並んでいたものであったが、今はただ、そうした豪奢も空しい夢となり、昔と変わらぬものは東山に出る月だけで、毎夜来って当時からの唯一の遺物たる金色堂を照らしているのである。
*補遺 (有田信風)
奥州は出羽国(現在の山形県・秋田県(北東部を除))と陸奥国(現在の福島県・宮城県・岩手県・青森県・秋田県北東部)から成ります。
奥州藤原氏の祖とされる藤原経清の父・頼遠は下総の住人であったとき何かの罪を得て陸奥国に留住させられていれたようです。
その頼遠の嫡子・経清は京都で軍事貴族であったようです。経清は陸奥守(陸奥国司)に随行して陸奥に来て土着したようです。その後奥州藤原氏は摂関家から藤原氏族の係累とされていて、後に奥州における摂関家の荘園の管理も委ねられています。奥州藤原氏自身も藤原北家秀郷流であると称していたようです。
経清は陸奥国の有力な豪族・安倍氏の一翼を担うようになり、安倍氏の娘を妻(名前は有加一乃末陪(ありかいちのまえ)とされている)とし、子・清衡を設けていました。
朝廷は奥州の争乱の平定を意図して源頼義を国司として陸奥に赴任させました。やがて陸奥の有力な豪族である安倍氏と源頼義との間の争いが起こりました。源頼義は出羽国の有力な豪族・清原氏の加勢を得て安倍氏を滅亡させました。このとき経清は源頼義によって、錆びた刀で苦痛を与える方法で斬首されました。これが「前九年の役」と言われるものです。
有加一乃末陪(ありかいちのまえ)は、戦勝者・清原氏の長男・武貞に再嫁しました。これにより彼女の子供・清衡は清原氏の嫡男・武貞の養子となりした。
その清原氏の一族に内紛が発生し、武貞の養父側が勝利しました。これが「後三年の役」といわれるものです。最終的には養子である清衡が奥州の覇者となり、出自の藤原を名乗り、奥州藤原氏の祖となりました。
奥州藤原氏は初代・清衡、第二代・基衡、第三代・秀衡と約100年間にわたり続き、四代目の泰衡のとき源頼朝に攻められて滅亡しました。結局、奥州の地には当初から源氏が関わり、源氏によって滅ぼされたということです。義経は第三代・秀衡を頼り奥州に落ち延びたのですが、その秀衡も源頼朝(義経の兄)の力に屈し、義経は結局自害に追い込まれ、その地で果てました。
なお、安倍氏についてはその出自を神武天皇東征時倒された畿内の王の子孫であると言う説・孝元天皇(第八代天皇(欠史八代の一)の後裔であるという説・朝廷に従った土着の民の支配者であるという説などがあります。
「欠史八代」とは第二代から第九代までの天皇について『古事記』・『日本書紀』には系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞)が記されていないとして、歴史学者・津田左右吉(1873〜1961)が提唱した説です。この説に対して、この八代の天皇は実在していなかったとする説・実在していたとする説あり、それぞれ学者たちが根拠を示して主張しています。

