詩吟は日本独自の伝統的な文化の一つです。日本人は奈良・平安時代の昔から漢詩を学び、自ら漢文で詩を作って来ました。 Chanting of a Chinese poetry or Japan-made Chinese poetry is one of the traditional culture unique to Japan. Japanese people learned Chinese poetry from the ancient times of the Nara-Heian period, and have made Japan-made poetry of Chinese letter by themselves. 


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過去の吟題のリンク集(一部)

2018年09月26日

H30-10『富士山』石川丈山

富士山(ふじさん) 石川(いしかわ)丈山(じょうざん)

 

仙客(せんかく)(きた)(あそ)雲外(うんがい)(いただき)

神竜(しんりゅう)(す)(お)洞中(どうちゅう)(ふち)

(ゆき)紈素(がんそ)(ごと)(けむり)(え)(ごと)

白扇(はくせん)(さか)しまに(かか)東海(とうかい)(てん)


仙客來遊雲外巓

~龍棲老洞中淵

雪如紈素煙如柄

白扇倒懸東海天


田子(たご)(うら) 打(う)(い)(み)れば

   ま(ましろ)にぞ

  不尽(ふじ)高嶺(たか) 雪(ゆき)(ふ)りける

                (萬葉集巻三 三一八 山部宿祢赤人)


以下の【作者】【語釈】【通釈】は、『吟剣詩舞道漢詩集』(㈶日本吟剣詩舞振興会編)から引用しています。

【作者】石川丈山(1583〜1672)江戸初期の漢詩人。名は凹(おう)、幼名は重之(しげゆき)。嘉右衛門と称し、丈山はその字(あざな)である。六々山人・四明山人・凹凸窩(おおうとつか)・大拙・烏鱗・山木・山材・藪里・東渓・山足などの号がある。三河(愛知県) 碧海郡の出身。祖父正信は長篠の合戦で戦死し、父信定もまた武名が高かった。丈山は若くして家康に仕え、豪勇をもって知られたが、大阪夏の陣に一人ひそかに軍営を脱出し、敵の首二級を奪ったものの、これが軍令を犯すこととなって退けられ、浪人の身となり、僅か30歳で京都に閉居した。そののち藤原惺窩の門に学び、堀杏菴(ほりきょうあん)などの詩人や文人らと交わった。

【語釈】*仙客・・・鶴、あるいは役(えんの)小角(おづぬ)という説があるが当たらない。  *神龍・・・神変霊妙な働きをする竜。  *紈素・・・白い生絹。白い扇面をいう。  *柄・・・開いた扇面以外の三角形になっている骨の部分。  *白扇・・・扇はうちわ。ここではおうぎの意。

【通釈】仙人が来て遊んだという、神聖な富士山の頂は雲を抜いて高くそびえている。また山頂にある洞窟の中の淵には神竜が棲みついていると伝えられる。冬のころこの霊山を下界から望めば、山頂から山すそまで純白の雪におおわれ、扇に見立てるならば、白絹を張った扇面にあたり、その上に立ちのぼる噴煙は、扇の柄にあたる。まるで東海の空に白扇がさかさにかかっているようで、その雄大な眺めは、実に天下第一等の山の名に背かぬものである。

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〚語句等の説明〛

窩      @鳥・獣・昆虫のすみか。A人が身を隠す場所。Bくぼんだ場所。

拙      @つたない。A自分を謙遜する言葉。

藪(そう)   @さわ。Aやぶ。B物事の集まるところ。

閉居     @家に閉じこもっていること。

歛(れん)   @あつめる。Aおさめる。Bしまる。


藤原惺窩 戦国時代から江戸時代前期にかけての儒学者。家名の冷泉を名乗らず、中国式に姓の藤原及び藤(とう)を公称した。永禄4年(1561年)、公家の冷泉為純三男として下冷泉家の所領であった播磨国三木郡(現在の兵庫県三木市)に生まれた。朱子学を基調とするが、陽明学も受容するなど包摂力の大きさが特徴である。近世儒学の祖といわれ、門弟のなかでも特に林羅山・那波活所・松永尺五・堀杏庵の4人は惺門四天王と称された。和歌や日本の古典にも通じており豊臣秀吉・徳川家康にも儒学を講じていた。元和5年(1619年)死去、享年59。別名:惺窩。号:北肉山人・柴立子、・広胖窩。字:歛夫。(Wikipedia)


役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの) 舒明天皇6年(634年)―大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代の呪術者である。姓は君。 修験道の開祖とされている。 実在の人物だが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい。(Wikipedia)


長篠の戦い(ながしののたたかい、長篠の合戦・長篠合戦とも)は、戦国時代の天正3年5月21日(1575年6月29日)、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千の武田勝頼の軍勢が戦った合戦。(Wikipedia)


短歌「田子の浦ゆ」について、「田子の浦」は現在の「田子の浦」とは別の地で、この歌が作られた当時は富士川西岸の一帯の海辺をさしていた。

山部宿祢赤人(やまのべのすくねあかひと)は、奈良朝初期から中期にかけての人と思われるが、生没年不詳。宮廷歌人として聖武天皇に従属して各地を訪れている。すぐれた叙景歌を多く残し、人麻呂と並び称せられている。

上記三一八の短歌は、赤人の長歌三一七番「天地の 別れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴き 駿河(するが)なる 富士の高嶺を 天野の原 振り放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲(しらくも)も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言い継ぎ行かむ 富士の高嶺は」の反歌である。(森 淳司 編『訳文 万葉集』笠間書院刊)


「田子の浦ゆ」などの「ゆ」:@時間及び動作・作用の起点を示す。A移動・経過する場所を示す。B動作の手段をあらわす。C比較の基準を示す。  

「い行きはばかり」:行くのをためらう(「い」は接頭語。動詞の上に意味を強める。

「時じくぞ」:「時じ」は体言について打消しの意味をもつ形容詞をつくる接尾語、「時節はずれ・その時期ではない」の意。「く」は「・・・・・こと」の意を表す。「ぞ」は古くは「そ」で、一つの事を特に取り立てて示し、強調する意をあらわす。従い「時じくぞ」は「ひっきりなしに」と言う意味になる。

赤人の名字について、『古事記』応神天皇の記に「此之御世、定賜海部、山部、山守部、伊勢部也」とあり、赤人の氏・山部はこれに由来しているものなのかどうか。なお「宿祢」は「真人」「朝臣」に続く三番目の姓(かばね)である。(有田信風)


posted by 信風 at 16:43| 当月の吟題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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