詩吟は日本独自の伝統的な文化の一つです。日本人は奈良・平安時代の昔から漢詩を学び、自ら漢文で詩を作って来ました。 Chanting of a Chinese poetry or Japan-made Chinese poetry is one of the traditional culture unique to Japan. Japanese people learned Chinese poetry from the ancient times of the Nara-Heian period, and have made Japan-made poetry of Chinese letter by themselves. 


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過去の吟題のリンク集(一部)

2019年02月20日

H31-03 復刻版・頼山陽『百済を復す』

これは平成21年(2009年)に投稿・公開したものです。

吟譜は私が付し、叙事詩調の解説は私が『日本書紀』の記述などを参考に作ったものです。
詩吟用の楽器を使って弾き語りをしています。

百済(くだら)(ふく)         (らい) (さん) (よう)

(とう)百済(くだら)(と)らむと(ほっ)         

(われ)百済(くだら)(ふく)せむと(ほっ)

怕婦(はふ)男子(だんし)(こ)皇帝(こうてい)          

佳賊(かぞく)(しょう)となりて呑噬(どんぜい)(たくま)しうす

(なんじ)兵食(ひょうしょく)(たす)(なんじ)(こう)(まも) 

(なん)すれぞ(なんじ)(みずか)万里(ばんり)(しろ)(やぶ)りしや

(とう)(われ)(いづ)れか得失(とくしつ)          

忠義(ちうぎ)孫子(そんし)(うみ)(ふ)みて(きた)

(なが)王臣(おうしん)(な)りて王室(おうしつ)(まも)


【語釈】*怕 ・・・こわい。 *呑噬・・・のむこと、かむこと。他国を滅ぼし、併せること。 *兵食・・・武器や食糧。 *資け・・・金品を用立てて助ける。 *奈・・・いかん、どうして。 *孰・・・どちら。


【詩文の意味】  江戸末期の漢学者・歴史家・詩人・書画家・頼山陽の詩『百済を復す』を解釈して、長編の自由詩の形で説明します。参考にした書物は岩波文庫『日本書記』などです。


頼山陽の作詞『百済を復す』を講釈する       有田信風


わが国の第4次遣唐使(659661年)が唐に滞在中、

唐は皇帝が高宗で皇后が武則天のとき6603月、

唐の将軍・蘇定方は13万人の兵をもって黄海を渡り百済に向かった。

新羅の武烈王は自ら軍を率いてこれを出迎えた。

唐軍は仁川(インチョン)近くの錦江(クムカン)を遡り、

新羅軍とともに百済の都城を包囲した。


将軍・蘇定方は郎将・劉仁願に兵1万人を授けてその都城に留鎮させ、

新羅兵7千人をこれに副え、

百済による都城奪回に備えさせた。

ソウルは当時唐の都城があったところ。

クムカンは当時白村江があったところ。


高宗の寵愛厚かった武則天は前皇后を追い出し亡きものにさせ、

高宗に代わって政務を執り、

新羅の要請を容れて百済討伐の軍を派遣し、

後には自ら皇帝になったこわいお方。


昔はわが国と友好関係にあったのに

北の高句麗や隣の任那にちょっかいを出すようになった新羅は、

好機到来とばかりに百済に攻め込んできた。

折しも百済王・豊璋(ほうしょう)が

忠臣・鬼室福信(ふくしに)を処刑したことを知った新羅は、

さらに勢いづき猛然と百済に襲いかかって来た。


百済が滅びれば任那も危ない。

わが日本は未曾有の危機に直面している。

時のリーダー・斉明天皇(665661年)は詔(みことのり)し、

駿河国(現在の静岡県の大井川の左岸で中部と北東部の地域)に命じて船を造らせ、

百済を救い新羅を討つ準備にとりかかった。


その天皇は崩御され皇太子・中大兄皇子が即位し天智天皇となった。

天智天皇(661671年)は百済を救うため、

総勢42千人の官軍を組織させた。

官軍総司令官には安曇比邏夫連(あずみのひらぶのむらじ)。

新羅を経て幾度も唐を訪れたことがあり、

彼の地の情勢には詳しいと考えられたお方。


駿河国の藘原君臣(いおはらのきみおみ)率いる健児1万人余りがまず白村江に向かい、

近江国(滋賀県)の巨勢神前臣訳語(こぜのかむさきのおみをさ)ら率いる

残り本隊27千人余りは新羅討伐に向かった。


唐新羅連合軍総司令官・蘇定方は名将であるが、

不条理な百済侵攻なるがゆえ、

賊将呼ばわりしたくなるような格好のよい男。

そのお方が勇猛な将校・劉仁軌に、

戦船170隻と兵を授けて白村江に陣烈させてた。

この前線指揮官・劉仁軌は縦横無尽に兵を動かし、

蘇定方の期待に応えた。


わが水軍が白村江に集結したとき、

陸上には新羅の軍が待ち構えており、

海上からは唐の水軍が現れた。

悲しわが健児らは白村江で挟み撃ちに遭った。


近江の朴市秦造田来津(えちのはたのみやっこたくつ)は天を仰いで誓い、

歯をくいしばって戦い、

10人の敵を倒して戦死した。

他の健児らみな同様に奮戦し、

彼の地に散って逝った。


天象気象地形敵情を見誤った用兵の悪さか、

わが戦船400隻は火の矢の猛攻で焼き尽くされ、

海面はわが健児たちの血で赤く染まった。


豊璋よそなた・豊璋は王子であったとき、

王子・善光とともにやむなくわが国の人質になっていたよな。

わが国はそなたたちに毎日豊かな暮らしをさせ、

そなたには太安万侶一族で神武天皇の血をひく女性を娶せた。

わが国そなたたちを賓客並みに処遇していたよな。


そなたの忠臣・佐平鬼室福信、

佐平は百済の最高の官位でわが国の太政大臣に相当する官位。

その佐平鬼室福信の要請に応えてわが国は、

そなたに百済の王位を継がせるべく矢10万本など武器や糧食などの援助をし、

大将軍安曇比邏(あずみのひらぶ)夫に戦船170隻を率いらせでそのたの海路を護り、

5千人余りを付けてその他の陸路を護り、

百済のそなたの本郷まで送ってあげたよな。


それなのに百済の国王となったそなたは、

なぜ自らそなたの忠臣・佐平鬼室福信を、

諸臣の妄言を容れて処刑してしまったのか。

新羅から恐れられていた佐平鬼室福信は、

そなたにとって万里の長城のようにそなたの力になってくれた人物だったのだぞ。


そなたがそれほど暗愚で無能な人物とは知らなかった。

わが水軍が唐新羅連合軍に敗れたとき、

そなたは僅かな従者とともに高麗に逃げ去った。

そなたは唐の前線指揮官・劉仁軌に「偽王子」と蔑まされたのだ。


わが国は百済を救うため、

総員4万千人余りの健児らと戦船千隻をもって、

わが兵力を大きく上回る唐新羅連合軍と戦った。

その戦いにわが官軍は大敗してしまった。

百済の王族や貴族とその家族らや、

一般庶民ら合わせて数千人が

次々と海を渡ってわが国に渡って来た。


敗戦直後に王族・佐平余自信(よじしん)や

貴族・佐平鬼室集斯(きしつしゅうし)らとその家族たち700人余りが

戦いに敗れたわが健児らと一緒に引き揚げてきた。


翌々年以降その他の一般庶民の男女400人余り、

2千人余りと次々に、

自分ら調達した船でわが国に渡って来た。


わが国に渡ってきたそなたの国の王族貴族たちは、

百済での冠位に相当するわが国の冠位が授けられ、

百済での位階に応じてわが国の姓(かばね)と

大刀などの褒章が下賜された。

そなたが処刑した佐平鬼室福信の近親者・鬼室集斯にも

相応の冠位が授けられた。


百済から引き揚げてきた王族や貴族たちは。

皆わが国の朝廷の一員となって都で暮らすことができた。

その他の民も近江国や東国(武蔵)に居住地や耕作の田が与えられ、

異国の日本で安心して暮らすことができた。


後年百済に駐屯していた唐軍が

新羅軍によって駆逐された時も、

2千人もの人々がわが国に逃れて来ようとした。

その中には百済に残って居た唐の官人と、

唐に協力していた百済の貴族及びそれらの家族のほか

百済の一般庶民が含まれていたらしい。


戦に負けたわが国は、

對馬と壱岐に防人と烽火(当時の通信設備)を増強し、

對馬には城も築き、

そこをわが国防衛の最前線の拠点とした。

首都(当時は奈良)防衛も強化して、

周囲の要地に城を築いた。


2千人の難民らは47隻の船で百済を脱出し、

新羅の南の島にたどり着き、

長らが集まり今後のことについて相談した。

「對馬や壱岐の防人たちは我ら船団を見たら驚いて、

必ず射撃してくるに違いない。」

結局わが本土を踏むことはできなかった。


未曾有の国難の時期の皇太子であり、

天皇であられた天智天皇は

よく臣民を統率され、

朝廷官僚の力を高めることに尽力され、

内政外交をよく進められた。

その御代に朝廷で最も力を尽くした内大臣・中臣鎌足は、

百済救援の失敗の責任を感じつつ6681056歳でこの世を去った。


唐と日本とではどちらが得をし、

どちらが損をしたであろうか。


白村江敗戦後最初にわが国にやってきた王族貴族とその家族らは、

数年後近江国に居住地を与えられて移り住んだ。

後年その地に佐平鬼室福信の近親者・鬼室集斯を祀る鬼室神社が建てられた。

その神社は今もその地・滋賀県蒲生郡日野町にあって韓国との友好の証となっている。


鬼室集斯は大学頭(大学寮の長官)としてわが朝廷の子弟の教育に貢献した。

許率母(こそちも)は五経(儒学の経典)に明るく、

大友皇子の賓客となった。

軍事や薬学や陰陽で貢献した人も多数いた。


そなたの忠臣であった将軍・達率(百済国の最高の官位・佐平に次ぐ官位)の

憶礼福留(おくらいふくるや)や四比福夫(しひふくぶ)は、

わが国防衛の拠点・大宰府周辺の築城などにその持てる技術力を提供した。

四比福夫は後の天皇から「椎野連(しいのむらじ)」の氏姓を賜った。


そなたとともにわが国に入侍していたそなたの近親の王子・善光は、

敗戦で百済に帰ることもできなくなって難波(大阪)の地に住居を与えられた。

善光の子孫は後に天皇から「百済王(くだらのこきし)」の姓を賜り、

陸奥守などの要職を歴任し、

従三位の公卿にまで列せられた。


近江国や東国に居住地を与えられた一般の民らは、

それぞれその地になじみ、

数世代のうちに多くの氏族に別れ、

特に戦国時代以降日本全国に広がっていった。


このようにして海を渡ってわが国にやってきた百済の人々は皆、

わが国の同胞になり、

今日世界に冠たるわが日本国をともに造ってきたのだ。



「唐と我といずれが得失・・・」

朝鮮半島には紀元前108年に漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして以降、新羅が朝鮮を統一するまで約8百年もの長い期間、朝鮮半島の一部は中国(秦、劉、魏、晋、元、唐など)の影響下にありました。我が国と中国や朝鮮の間には古墳時代以前から人々の往来がありました。特に応神天皇の頃、3〜4世紀、中国では後漢滅亡後、三国時代から晋の時代、中国や朝鮮から非常に多くの人たちがわが国に渡来し、帰化しています。このことは、日本書紀に詳しく記述されています。

渡来人たちはわが国の国家統一の過程で天皇から秦、倭漢(東漢)、西文などの姓や爵位を賜り、朝廷に仕え、わが国の国家統一に貢献しています。遣隋使・遣唐使のメンバーには帰化系氏族の人たちの名前が数多く見られます。彼らはわが国に当時先進国の文化・教養を必死に学んで持ち帰り、またわが国のことを先方に紹介してわが国に対する認識を改めさせるように努力しています。

渡来系の人々は朝廷におけるあらゆる職域の分野で有能な人たちが多く、秦、東漢、西文などの姓は後に朝廷への貢献度により区別される臣・連などの姓に変わりました。この結果渡来系であるかどうかは全く無関係になり、数世紀の間に非常に多くの氏族・名字に分かれ、日本民族として完全に同化してゆきました。それが私たち日本人であり、現代の‘武士’とも言えるスポーツの選手はサムライとかヤマトナデシコなどと言われる所以です。

現在の私たちは、親が25歳でのとき自分が生まれたとして、その両親、その両親のそれぞれの両親、というように1000年前までさかのぼると40世代となって、240乗つまり1兆人の親がいることになります。古代の人口を考えると現在の私たちは誰でも、16001700年前頃中国や朝鮮から渡来してきた人々の遺伝子を受け継いでいることになります。たまたま電車の座席の隣に座っている人が、何百年か前に自分と同じ祖先から別れた人の後裔であったりします。

征夷大将軍坂上田村麻呂は漢の皇帝の子孫であるとされています。百済滅亡後、豊璋の弟の子孫は持統天皇から百済王(くだらのこにきし)の氏姓を賜り、陸奥守などに任ぜられ、その後栄達して従三位の公卿(刑部卿)になり、後世に百済の王統を伝えています。私たちの遺伝子情報の中にはそれらの歴史上の人たちと同じものを持っていることになります。

わが国が百済を救い、朝鮮半島における日本の権益を守ろうとして、日本書紀上42000人の兵と、1000隻に近い軍船推定(中国の『三国史記』では「倭船千艘」とある)を派遣して臨んだ663年の白村江の戦いは、百済の王となった豊璋が忠臣・福信を疑って処刑したことを知って勢いづいた新羅と唐の連合軍、唐の水軍の挟み撃ちにあい大敗しました。その結果、日本はそれまで守ってきた朝鮮半島での権益をすべて失ってしまいました。

戦いに敗れた日本軍は残った軍船などで百済からの難民(貴族・随行者・一般庶民ら数万人)とともに日本に引き揚げてきました。朝廷は彼らに居住地と田を準備しました。貴族や随行者らは百済での官位に応じて相応の爵位を賜っています。白村江での敗北で日本は非常に多くの人材を得ています。

白村江の戦いの13年後、新羅は百済と高句麗の南半分から唐の勢力を追い出し、鴨緑江以南の朝鮮半島を統一しました。しかしその後百済の復興を目指す勢力や高句麗(後の高麗)の勢力が強まり、新羅は弱体化し、918年(わが国の平安時代中期・紀貫之に『古今和歌集』の撰進を命じた醍醐天皇の時代)、北方の高麗に滅ぼされてしまいました。新羅の王は百済出身であったと言われています。つまり、朝鮮半島の南側の勢力は、唐の力を借りて一度は北側、鴨緑江以南の地域までを統一しましたが、918年に今度は北側の勢力が朝鮮半島全域を統一しました。その後、地勢図の変動がありましたが、その話は省きます。

わが国は古代からずっと万世一系の天皇、特に神功皇后(170269年、中国では後漢滅亡前後の時期)のもと、時の政権は平安時代以降朝廷から武家へ、そして明治維新後は立憲政府へと変わりましたが、朝鮮半島における動向に対し常に敏感に対応してきたことだけは確かです。朝鮮で調達された軍船と兵員による元軍の来襲、すなわち文永の役(1274年)・弘安の役(1281年)では、鎌倉幕府の命令で御家人や九州の武士たちが必死の戦い、たまたま台風という天運があって、わが国の平和を保つことができました。それでも、特に対馬や壱岐では一般民衆が非常に残酷な目に遭っています。御家人・武士たちも非常に多く戦死しました。

現在、朝鮮半島は古代においては高句麗(高麗)の勢力圏であった北朝鮮と、古代においては北部に高句麗(高麗)、南西部に百済と南東部に新羅があった現在の韓国とに分断しています。その北朝鮮はわが国の安全を脅かす行動に出ています。

(参考図書:岩波文庫『古事記』『日本書紀』『続日本記』『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』『旧唐書倭国日本伝・宗史日本伝・元史日本伝』など)


posted by 信風 at 18:53| 当月の吟題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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