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スマートフォンでは広告が出ていて迷惑しています。広告は私(有田信風)と全く無関係です。自分で立ち上げたホームページではなく無料のブログを利用していますので、この種の広告が出るのは止むを得ないのかな、と以前から思っておりますが・・。
芳野(よしの) 河野(こうの)鉄兜(てつとう)
山禽(さんきん)叫断(きょうだん)夜(よる)寥寥(りょうりょう)
限(かぎ)り無(な)きの春風(しゅんぷう)恨(うら)み未(いま)だ銷(しょう)せず
露臥(ろが)す延元(えんげん)陵下(りょうか)の月(つき)
満身(まんしん)の花影(かえい)南朝(なんちょう)を夢(ゆめ)む
芳野 河野鉄兜
山禽叫断夜寥寥
無限春風恨未銷
露臥延元陵下月
滿身花影夢南朝
下記の文は、財団法人日本吟剣詩舞振興会編『吟剣詩舞道漢詩集「絶句編」』から引用させて頂きました。
【作者】河野鉄兜(1825〜1867) 幕末の漢詩人。名は羆(ひぐま)、字は夢吉、通称は絢夫(あやお)、鉄兜または秀野と称した。播州(兵庫県)網干(あばし)村余古浜(よこはま)に、文政8年12月に医家河野通仁の第三子として生まれた。幼時から神童と称され、初め讃岐の吉田鶴仙の門に学び、のち梁川星厳を師とし、よく詩学に通じた。24歳の時江戸に遊んで諸名家を訪れ頭角をあらわした。(中略)のちに日光山に入って学に勤め、再び江戸に上がって播州林田藩に招かれ、到道館教授となった。安政元年から二年の間、讃岐・大阪・山陽・九州に遊んで木下韓(い)村・草場佩(はい)川・広瀬淡窓らを歴訪して帰藩、林田に家塾を開いて生徒に教授した。医家としてよりも詩人として名が高く、名士にしてその地を過ぎる者は皆足を留めたという。文久3年病にかかり、以後病床にあること5年、慶應3年に没した。享年43歳。
【解説】芳野に遊び、南朝をしのんだ作で、春夜ものさびしい御陵おあたりを低徊して去りがたく、野宿して南朝を夢みたという詩である。
【語釈】*山禽・・・山の小鳥。 *叫断・・・叫んで。「断」は絶える意味ではなく、強めの意の助詞。 *寥寥・・・寂しいさまにも夜の更けたさまにもいう。 *露臥・・・野宿する。 *延元陵・・・後醍醐天皇の御陵で、いわゆる塔尾陵。
【通釈】かん高く山中の鳥の叫びがひびきわたり、しんしんと夜は更けてゆく。吹きやまぬ春風も未だに晴れ難い後醍醐天皇のご無念がこもっているようで凄まじく感ぜられる。せめて今宵はみ霊をばお慰め申そうと陵(みささぎ)のほとりで月光の下に野宿をすれば、白々と咲く桜の花かげを身にいっぱい映しながら、いつしかまどろんでしまい、南朝のことを夢みていたのである、
=== 南北朝について === 以下渡部昇一著『日本史』を参考に記述します。(有田信風)
鎌倉時代中期、後嵯峨天皇(西暦1242年即位)の御世、皇室で相続問題の争いが起きました。後嵯峨天皇には久仁親王と恒仁親王の二人の皇子がいました。皇位は長男である久仁親王に譲位され、西暦1246年に久仁親王は後深草天皇として即位されました。
しか後嵯峨天皇は二男の恒仁親王愛され、皇室の所領の多くを恒仁親王に相続させようとしました。
後嵯峨天皇は皇位を長男の久仁親王に譲って上皇となり、久仁親王を皇位につけて後深草天皇としました。しかし後深草天皇にまだ子供が出来ないうちに二男の恒仁親王を皇太弟としました。そして後深草天皇が病気になると退位させて後深草天皇を上皇とし、皇太弟にしていた二男の恒仁親王を亀山天皇として即位させました。このとき亀山天皇は僅か11歳でした。一方、退位して上皇となった後深草天皇は17歳でした。
父の後嵯峨上皇は文永9年(1272年)に遺言状を残して崩御されました。その遺言状には財産分与については明記されていましたが、誰が天皇になるかについて幕府に任せるとしか書かれていませんでした。
当時元の来襲に備えて全力を傾注していた鎌倉幕府執権北条時宗は後嵯峨天皇の皇后であった大宮院・西園寺姞子(さいおんじきっこ)に後嵯峨上皇の本心が何処にあるか問い合わせました。すると大宮院は「後嵯峨上皇は亀山天皇の親政を望まれていた」と答えました。
その結果、幕府は嫡流の後深草上皇の系統でなく、その弟の亀山天皇の親政を決め、亀山天皇の皇子である世仁親王を皇太子に立てました、
本流であった兄の後深草上皇は悩んだ末出家を考えました。そのことを伝え聞いた時宗は同情し、後深草上皇の皇子である煕仁(ひろひと)親王を後深草上皇の弟である亀山天皇の猶子(ゆうし)(子とみなすこと)とし、将来煕仁親王が即位したときには後深草上皇の院政にすることにして一応の決着を見ました。
弟である亀山天皇の皇太子が即位し後宇多天皇になり自らは亀山上皇となったとき、兄の後深草上皇の血を引く煕仁親王が皇太子となり、煕仁親王が即位して伏見天皇となりました。その後深草上皇の系統を持明院統(後の北朝)、亀山上皇の系統を大覚寺統(後の南朝)となり、その両統は大体交互に皇位を譲り合っていましたが、次第に対立うるようになりました。
仲裁役の鎌倉幕府は両統の交代期間を10年と定め、しばらくはその方式が機能していました。しかし鎌倉幕府は元寇の後始末で弱体化して行きました。その結果皇位継承は南北朝の争いに発展して行きました。
西暦1318年に31歳で即位した大覚寺統の後醍醐天皇は学んだ朱子学(宋学)の教えである大義名分を大事にされ、「日本の正統たる天皇の地位が幕府の意向で決まり、皇位継承に幕府が干渉するのは許すことのできない不遜な行為である」と考えました。
後醍醐天皇は討幕行動に出ました。このとき後醍醐天皇を助けて兵を挙げたのが楠木正成です。楠木正成は河内の赤坂城に立てこもり幕府軍と戦い始めました。
一方後醍醐天皇軍は笠置山で幕府軍と戦いましたが敗れ、楠木正成の赤坂城へ向かいました。その途中で幕府につかまり、元弘2年(1332年)に謀反人として隠岐に流されてしまいました。
幕府軍は赤坂城を攻めこれを落としますが、その前に正成軍は一計を案じ正成が其処で焼死したように見せかけて脱出し、勢力を拡大して金剛山に築いた千早城に立てこもり幕府軍と戦いました。その間に隠岐島から抜け出した後醍醐天皇は兵を挙げました。可笑しいのは後醍醐天皇討伐のため鎌倉幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が幕府に対して寝返り、関東では新田義貞が兵を起こして鎌倉に攻め入り、鎌倉幕府は滅びました。
後醍醐天皇は京都に戻り政治を執ることになりました。源頼朝が鎌倉に幕府を開いてから140年ぶりに政権は朝廷に戻りました。これが「建武の中興」です。
しかし後醍醐天皇は足利尊氏が朝廷に対して兵を挙げたとき、ご自分に対して武功第一のはずの楠木正成の軍略を受け容れませんでした。このため楠木正成軍は湊川で玉砕してしまいました。この結果「建武の中興」も消滅してしまいました。
なお、後醍醐天皇は閨房の方も盛んで、子供を産ませた女性だけでも20人は数えることが出来ました。後醍醐天皇はその皇子だけでも少なくとも16人は数えることが出来ます。免罪で処刑された護良(もりなが)親王は第三皇子でした。護良親王が獄中から免罪を訴えた手紙を出しましたが後醍醐天皇には届きませんでした。後醍醐天皇はご自分の御子を処刑させてしまったのです。

